澱んだ色の雲が空一面を覆い尽くす、寒く薄暗い夕刻。
表通りから大分奥へと進んだ、薄暗い石畳の路地裏。
家屋の煉瓦壁の連なりは、所々欠け煤汚れている。路地の幅は三尺ほど。人通りを拒む不気味さを漂わせる此の道を歩むなど余程の酔狂かと思われるが――現に、往く者が居た。
二十歳前後と思しき整った顔立ちの青年。身に纏う服は、今の時分ではハイカラと言われる洋装で、黒い生地で誂えられた其れを彼はすんなり着こなしていた。
口許には幽かな微笑み。目の色は黒で、長い睫毛が影を作っていた。
カツリ、と綺麗に磨かれた革靴が石畳に硬質な音を響かせる。
彼方から響いてくる雷鳴。空気の匂いが少なくとも後数刻で雨雲が此処までやって来ることを予感させた。
青年は此れは困った、と唇を苦笑の形に歪めて、「濡れるとヨタが怒りますね……」と呟いた。
雨に濡れることに関して青年自身はさして頓着しないのだが、彼が濡れそぼることで不機嫌になる存在が在るのである。用事は早々に済ませるが吉だ、と青年は思った。
革の手袋が嵌められた左手に持つ、布に包まれた二尺程の荷を握りしめる。
己が望む結末への物語は現在、起承転結で言うとしたら起=B今のところ、全てがとても順調だった。長期戦になることは想定していたし、経過を楽しむ余裕が己には備わっている。後は慎重に機会を伺うことと、契機を逃さないことだけに注意を払えば良い。
兎にも角にも――
「早急に終わらせますか……」
青年の足は、とある二階建て集合住宅の前で止まった。多くの建物の壁面が煉瓦という中で、今では殆ど姿を消した木造で建てられている其れは、見るからに年季が入っている様に思われた。
青年は青銅のプレートに刻まれている楓荘≠ニいう文字を目視すると、つい、と二階部分を見上げた。数多ある集合住宅の類に漏れず、此の楓荘も外付けの階段で二階に上がれる様だった。
ぎしぎしと軋む階段を慎重に一歩一歩上って行く。いちにいさん、と数えて、階段は十三段目で終わった。
一階分、空が近くなる。倭国の法律により高さ制限がなされている故、例え二階だとしても若干の景色が見渡せた。煉瓦壁と灰色の薄石を鱗の様に重ね合わせた屋根。其の中にちらほらと混ざる、伝統的な木造建築の家屋――
「………………」
青年は其の風景を一瞥して直ぐに目を逸らした。統一された非常に理性的な街並み。綺麗だとは思うが、どうも従順な優等生を目の前にしている感覚を抱かせるのだ。異質物は排除すべし。秩序を乱すモノには其れ相応の罰を――
「新居川一郎」
そう表札に書かれた扉の前で、青年は立ち止まった。
中には人の気配がある。ふむ、と思案げに青年は何気ない動きで周囲を見回した。人影はない。
心は凪いだ海の様に穏やかだった。そして其の事実を、青年は当然のこととして受け入れていた。
青年は口元を笑みの形に歪めると、錆びかけた鍵穴に鍵を差し込んだ。其処は初めて訪れた場所なのにも関わらず、まるで自身の家の扉であるかの様に、流れる動作で行われた一連の動作に躊躇いの要素は伺えない。
かちり、と静かに解錠を告げる音がする。其れを慎重に確認すると、鍵を抜いて胸元の衣嚢に落とした。そして、
「どうも今日和、初めまして新居川一郎さん」
開かれた扉。八畳一間の部屋。呆然とした表情の男。
部屋の様子を一瞥すると、青年はにっこりと男に向けて微笑み、言葉を続けた。
「狗月清貴(くげつ きよたか)と申します。以後お見知り置きを――と言いたいところなのですが、残念ながら僕は貴方を殺さなくてはいけないんです」
「な、何なんだあんたは! 何で俺の家に勝手に入って来られる!?」
男が何か叫んでいる。
青年はそんな言葉を右から左に流し、手に持っていた二尺ほどの荷を包む布を取り払った。現れたのは小太刀。
「罪状は推定十件にわたる幼児への性的虐待及び殺傷。死体遺棄。間違いはありませんね」
「そ、其の件は嫌疑不十分により不起訴になった筈だ! 俺は知らない! 俺は無罪だ!」
「本当に、そう思っていますか?」
「なっ……!」
スラリと鈍く光る刀身が露わになる。青年は鞘を放ると困った、と苦笑して肩を竦めて見せた。
「其れは困りましたね。己の所行を忘れてしまうなんて」
「お、お前は何なんだ!? 警察か、警察なのか!?」
「いいえ? 僕は警察ではありませんよ」
慌て怯える男に対し、青年は穏やかさを保ち続ける。そう、其の右手に持つ人殺しの道具≠フ切っ先を男に突きつけた状態でも。
「そうですね……警察官≠フ様に、僕の立場を称するのであれば……」
と、一閃。
「処刑人≠ニでも呼んでください――と、嗚呼もう聞こえませんか」
広がる赤色に、青年は再びにっこりと微笑んで呟いた。
「個人的なことを言わせて頂くと、とても残念ですよ、新居川一郎さん。貴方は一寸役者不足でしたから」
小太刀の赤を拭い、鞘に納めてから踵を返す青年の目に、微かに開かれた洗面所が映る。引き戸を開き放つと、青年はやれやれと溜息を吐いた。
「知らない、なんてやっぱり嘘じゃないですか」
青年の足許では齢五つになるかならないかの子どもが、虚ろな目で空を見つめていた。最早もの言わぬ其の首だけの子どもは、一週間程前に行方不明になったと新聞で取り沙汰されている顔と非常に酷似していて。
「個人の嗜好に関してとやかく批評するつもりはありませんが……もっと、上手くやる方法など幾らでもあったでしょうに。そういう意味で貴方は犯罪者≠ニしても役者不足、でしたね」
ドアを開くと、既に灰色の雲がポツリポツリと大粒の涙をこぼし始めていた。
「嗚呼、困った」
閉まった扉の向こう。赤く染まった二つの現実よりも、青年には気がかりなことが一つあった。
「……ヨタに怒られてしまう」
雨足は弱まることを知らず、どうやら本降りになりそうな気配であった。
*
――処刑人計画。
其れは倭国上層部の極秘計画。
――処刑人。
其れは計画の実行者。
騙す者が居る。
騙される者が居る。
利用する者が居る。
利用される者が居る。
とある一つの利己主義の連鎖。
「我こそは望みを叶える」と人は言った。
「我こそは望みを叶えた」と人は言った。
*
比較的貧困層が住まう区域に、其の集合住宅はあった。
煉瓦造りの堅硬さは遺しているものの、あちこち欠けひび割れた壁は、辛うじて住めれば良い、という大家の意向が伺える。
狗月は端にある階段から二階に上がると、一つ二つ、三つ目の角部屋の扉の前で立ち止まった。そして所々塗装の剥がれとへこみが見受けられる扉を二回叩いた。
『はい?』
扉向こうで、若い女の声。
「僕です、ヨタ」
『…………』
しばしの沈黙の後、軋みと共に開かれた扉の先に立っていたのは、丁度狗月と同じ位の齢の、若い娘だった。
洋装の狗月に対し、娘は椿の模様が描かれた着物を身に纏っていた。肩口で切られた髪に、気の強さを伺わせる色を秘めた瞳。誰もが振り向く美人ではなくが、整った目鼻立ち。
娘は狗月を視界に入れると、あからさまに眉を逆立てて口を開いた。
「傘って存在、ご存じかしら?」
廊下には、狗月の足幅と同じ感覚で小さな水溜まりが出来ていた。案の定、本降りに巻き込まれ、しかし雨宿りすることなく真っ直ぐ此処に向かった狗月は全身ぐっしょりと濡れていて、毛先からは依然と水が滴っている様相だった。
「まぁ、聞いたことはありますね」
「……………………」
そう嘯く狗月を一瞥したヨタと呼ばれた――夜鷹深潮(やおう みしお)は、さり気なく狗月の背後を伺った後、言葉なく彼を玄関内へと招き入れた。
「其れで? ずぶ濡れとか、あんたあたしに喧嘩売ってるの」
深潮は不機嫌な色を隠さず狗月を睨んだ。
「売ってませんよ」
「嘘ね」
「嘘じゃありません」
「じゃあ何よ。あたしを納得させる言い訳出来るの?」
「…………困りましたねぇ」
「困ってるのはあたしよ!」
しかし此の儘、彼を玄関先に立たせて置く訳にもいかない。溜息を吐きつつも家の中に招き入れた深潮は、乾いた手ぬぐいを何枚か持って来ると、其れを玄関の中で佇む狗月の頭に被せた。
「一寸は雨宿りするとか、雨よけになるものでも探してみるとかしなさいよね。何処かで泳いで来たみたいにびちゃびちゃじゃない!」
「……すみません」
「…………あんたはあたしが殺すんだから」
自身の着物が濡れるのも構わず狗月の髪を拭きながら、吐き出す様に深潮は言った。
「…………」
「だから、あたしの許可なく死ぬのは勿論、風邪引くのも赦さないわ」
「………………」
「ちょっと聞いてるの?」
「――聞いてますよ。僕を殺すのはヨタです、そうでしょう?」
「……そうよ。忘れてないなら良いわ」
此の木造集合住宅にある六畳二間は、狗月の立場を知る数少ない人物、処刑人$齣ョ医――夜鷹深潮の現在の住居である。現在、というのは深潮が定期的に住居を変える故であり、此の場所は越してきて二週間という比較的新しい場所であった。
何故そう頻繁に引っ越すかと問われれば、幾つか理由が挙げられるが、其の大きな理由の一つには狗月の問題があった。狗月は其の立場上、監視されている。流石に盗聴器を仕込まれたり、発信器を付けられるといった枷こそ付けられてはいないが、上≠ェ用意した住居には常に監視の目が向けられているし、一日二度の連絡は必須。月に一度は呼び出され上≠ニの対面が設定される。ある程度自由は赦されているものの、決して緩くはない監視は抜かりなく行き届いていると言えた。そして其の目は、狗月に向けられるものではないにせよ、深潮にも向けられている。
しかし其れでは困るのだ。そう、狗月ではなく、深潮が。
深潮の望みを叶える為には、上≠フ監視は些か無粋で非常に邪魔であった。
「深潮が狗月を殺す」というのは、比喩的な言葉ではなく、文字通りの意味。過去の柵、想いが絡み合い、未来において夜鷹深潮が狗月清貴を殺す、ということは双方の了解によって誓われている。
狗月清貴を殺すことが夜鷹深潮の望み。
夜鷹深潮に殺されることが狗月清貴の望み。
一年前のあの日、計画が始動した時から。
二年前のあの日、二人が選ばれた時から。
三年前のあの日、企みが生まれた時から。
四年前のあの日、深潮が決意した時から。
五年前のあの日、事件が起こった時から。
六年前のあの日、二人が出会った時から。
酷く歪んだ関係性。しかし二人にとっては最良の関係性。
崩す権利は深潮にあり、維持する権利が狗月にある。
だからこそ、深潮は処刑人$齣ョ医になる道を選択したが、彼女の望みを叶える為には上≠フ目の行き届かない場所が必要だった。
此の厳かな関係性に他者が介入すると考えただけで、深潮は嫌悪を覚える。
誰にも邪魔はさせない。
誰にも、誰にも――
「冷え切ってるじゃない。季節っていうのを少しは意識してよ」
触れた頬の冷たさに、深潮は不機嫌に言った。
「今回此の家はお風呂付いてないの、知ってるでしょう。ああ、もう今ヤカンの水を沸かすから……」
「ヨタ」
小さく、たった一人だけが呼ぶ名を口にして。部屋の奥の小さな簡易台所に向かおうとした深潮の細い手首を掴んだ狗月は、思わず体勢を崩した其の体を引き寄せた。腕力の強さで言えば、男の中では兎も角としても女である深潮には勝る。
「一寸、なぁに」
唐突な行動に驚いた声を挙げた深潮に、狗月は読めない笑みを口元に浮かべて、自身よりも華奢な体を抱き寄せた。
「多分、もっと効率の良い方法があるんですが……」
「…………あんたね、」
暗に含まれる意味を察した深潮は、呆れた調子で言葉を返した。
「いつもいつも、切っ掛けが独特すぎるわ……」
「そうでしょうか」
「そうよ」
珍しく、小さく笑った深潮の首許に狗月は顔をうずめた。まだまだ水分を含んだ髪や服から水滴がポタポタと重力を甘受して落ちて行く。冷たさが深潮の着物を侵食する。
「しょうがないわね」
狗月の耳元で熱の篭もった言葉が囁かれる。細い手が濡れた狗月の髪を掴んで、当たり前の様に唇が合わさった。
其れが合図。そして何時ものことながら、其れは二人にとって退廃的な時間の始まりだった。
其の行為に果たして意味があるのかないのか、そんなことを考える時期はとうの昔に過ぎ去っていた。でも、ただお互いの快楽の追求の為だけに回数を重ねるのではない。其れだけは、どうしてか断言できた。
――綺麗だ。夜鷹深潮の肌に触れる時、狗月は何時もそう思っていた。
男性では持ち得ない曲線美。肌の感触。声。仕草。試しに他の女性を抱いたこともあったが、深潮の方が良いと何故かそう思った。言葉には出来ないのだけれども。
「……ヨタ」
「……もう、はやく……、」
体の下に脱ぎっぱなしになった、椿の描かれた着物が深潮の婀娜っぽさに拍車を掛けていた。薔薇より、桔梗より、撫子より、椿という花が何より彼女には似合う、と狗月は思っていた。
内に理性を脅かす獣を飼っていることを自覚しながら、狗月は酷く冷静に深潮を抱く。焼け付く様な熱。合わさる唇。洩れる吐息。淫らな音。背中に感じる鈍い痛み。全て現実なのに、何処か遠い。
「……ぁ、……」
其れなのに止めない。繰り返す。何度も、何度も。子を成すのを目的としない非生産的な行為を重ねて――そして何かを得て何かを失うのだ。
「――――っ」
終わりは何時か必ず訪れる。未来が見えない関係性。何通りか選べる展開の中で、此の物語を選んだことに狗月は満足していた。此で良い――否、此れが良いのだ。
*
「お嬢様、到着致しました」
所有者が上流階級であることを雄弁に語る高級車から鮮やかな紅色の蝙蝠傘が広げられたのは、夜の帳が下りて数刻経った時分のことであった。
倭国の中では比較的貧しい人々が住まう此の地区に街灯はない。外側から扉が開けられ車から降り立った人物は、家々から漏れ出る明かりを頼りに周囲を見回した。
「香宮。確かに此処なんですの?」
声色から察するに恐らく少女と思しき洋装の人影が、其の蝙蝠傘の下から囁く。
「間違い御座いません」
傘を差し出す物腰穏やかな初老の男が、恭しげに言葉を返した。
「監視手段は主に日二回の電話となっている様です」
「成る程、直接的監視は諸刃の剣ですものね。計画は飽くまでも極秘、とのことですから」
「呉々もお気をつけくださいませ。香宮はお嬢様の身が何よりも心配で御座います」
「分かってますわ。目的に辿り着く前に自滅するなんて格好悪いですもの」
軽やかに少女は笑うと降りしきる雨の中、目の前の寂れた集合住宅の一角を見つめた。表札が無いのは意図的か否か。少女は其の扉の向こうに居るであろう住人を思い描く。
「本日は如何致しますか」
「ご挨拶は改めて、ですわね」
「畏まりました」
「物語の登場人物と言うは、何時も最適な機会に登場するものですわ」
少女は再び開けられた車の扉から中に入ると、雨粒が叩きつけられる窓に写る自身の顔を横目に密やかに苦笑した。
「其れに今日は決定的なモノが撮れましたし。欲張らないでおきますわ」
「おや、お嬢様にしては謙虚でいらっしゃる」
「あら、わたくしは元より謙虚でしてよ」
窓の外側を伝う雨の滴は近いのに遠い。延ばす指先は空を辿るだけで、其の水滴に触れることは叶わない。
「分からぬことに答えがあるのなら、わたくしは其の答えを知りたい。ただ其れだけですわ」
「微力ながら此の香宮、お嬢様の望みの為に尽力致します」
「ええ、期待してますわ」
黒の色を纏った車は、静かに闇の中に消えた。
空はいよいよ大泣きといった様子で、其の街を悲しみに浸して行く。
其の日は何処かで誰かが泣いていた。
其の日も何処かで誰かが泣いていた。
*
其れは西暦にして、二十四世紀後半のことだと言われている。
人工的に疑似重力を発生させることに成功した人類は、新たな可能性を求めて宇宙開拓に乗り出した。現在、此の倭国という国家のある惑星に住まう人々の祖先は、其の初期に旅立った東洋系の一派だったと記録されている。
終わりの見えない片道切符の旅。数多くの宇宙船が夢半ばで消えていったという中で、居住可能な惑星を発見出来たことは、奇跡と称して良いものであった。
既に出発地点である月面基地との連絡は不可能となっており、彼らが其処に定住しようと考えたのは自然の流れであった。そして彼らが地上に降りたった其の日から年号を「青暦」とし、其処から二世紀あまりの歴史を重ね、其の間外部との交流もなく過ごし、新たに宇宙に出ることもなく倭国独自の文化を形成していった。
そして現在から遡ること二十年前の青暦二百五十三年。とある一つの巡察船が此の惑星――彼らは己らの国を倭≠ニ名付けていた――を発見したことで、此の小さな世界は震撼させられる運命を辿ることとなってしまった。発見した巡察船の所属は「銀河帝国」。今や宇宙に点在する地球系人類を統括する、巨大権力であった。
彼らは圧倒的に先進していた。倭国は抵抗したが、二百年以上に渡って、技術の発展よりも平和を選択し続けていた彼らが、帝国の所有物となるのは必至な結果であった。
帝国は倭国を自治区として認めてはいたものの、其れでも譲らぬ要求はいくつも存在した。
其の一つに、「死刑制度の廃止」はあった。
帝国の主張曰く、「死刑制度は野蛮で非人間的。犯罪の抑止力にはならない」と言うことである。倭国は其の帝国の倫理要求を呑むより他なかった。
しかし、問題が発生した。帝国の介入によって二百年以上保たれていた均衡が崩れ秩序が乱されることになり、貧富の差が拡大。貧民層が増え危険地帯が広がり、故に悪質な犯罪が急増したのだ。
昼夜問わず逮捕される犯罪者たち。其の者らを野放しにする訳にもいかなかった倭国は、苦肉の策として一つの手段を執らざるを得なかった。つまり、終身刑判決の乱発。
終身刑囚の急増は、ただでさえ潤沢とは言い難かった国の財源切迫に繋がった。一人の囚人にかかる費用は、彼らの衣食住を始め施設維持費、増やされた看守へ給金なども鑑みると想像以上に高額になる。其れが千人単位になってきたらどうなるだろうか――
人口、貧富、治安。箱庭という囲いの中、絶妙に保たれていた均衡が崩れつつあった。
帝国との良好な関係性の構築を目指す倭国は、未だかつてない程の予算を割いて対帝国外交を行っていた。税金を増やすことも限界になった現在、何としても凶悪犯罪者対策の手を打たなければならなかった。
――処刑人計画。
其れは、秘密裏立ち上がった極秘計画の一つだった。
見切り発車で始動した此の計画の実行者として選ばれたのは、二人。両者とも殺人を犯している過去を持ち、しかし普通≠フ殺人犯とは何かが違う精神構造の持ち主であったことが、選ばれた大きな理由であった。
狗月清貴――二十四時間の内に父親、母親、弟、及び夜鷹深夜の計四名を計画的に殺害。同級生に通報され駆けつけた警官によって逮捕される。精神鑑定に異常なし。悔悛の色なし。
朝兎忠人――依頼により殺人を請け負う。手がけた数は推定不能。政府関係者を対象とした際、逃げ切ることが叶わず逮捕される。精神鑑定による異常なし。悔悛の色なし。
時代が彼らを産んだのか、彼らが時代に合わせたのか。決して少なくない殺人犯の中で、彼らは抜きんでた異色さを放っていた。
国は彼らを利用している。都合良く。悪役を演じさせて。泥を被せる。
しかし国は知らない。何故彼らが其の立場を素直に受け入れたのかを。彼らの思惑を。其の望みを。
*
曇り硝子窓の隙間から、澱んだ色の雲が空を覆っているのが見える。
雨は夜明け前に上がった様子だったが、薄い霧が街中に陰鬱とした雰囲気をもたらしていた。
「……………………」
ふと目を覚ました深潮の目に写ったもの。
「………………行くの」
昨晩の熱が幻であった様な冷静さを纏った狗月が、襖を開けるべく手を掛けたところだった。
ずり落ちそうになる椿柄の着物を肩に掛け直しながら、深潮は気怠げに半身を起こした。
「今日も?」
深潮の声に動きを止めた狗月は、目線だけで深潮を見ると微笑んで言った。
「世の中から犯罪が尽きることはありませんから」
「……そうね」
狗月を見つめながら深潮はくすり、と笑みを返した。
「今日も帰って来るんでしょ?」
「今日も来る予定ですよ」
「そう。いってらっしゃい」
「ええ其れでは」
静かに襖が閉められ、数瞬置いた後玄関の扉が開いて閉まる音が響いた。
「うふふ。いってらっしゃい≠ヒ」
再び褥に身を横たえ、枕に額を押しつけてくつくつと笑う。
此の気持ちを何という言葉で言い表そう。
どうしようもなく可笑しく、酷く悲しかった。
どうしようもなく幸せで、酷く不安だった。
彼は今夜も必ず此処を訪れるだろう。訪れる、其れは確実なこと。しかし其れは「帰って来る」なのだろうか。其れともただの「来る」なのだろうか。
「今更何を莫迦みたいに。あたしは……」
望みを果たすために、強引に処刑人の監視役となった。此の地位を得る為には、口にはしたくないこともしたし、使えるものは全て使った。しかし深潮は、其れらのことを悔いてはいなかった。
確固たる望みがあった。
其れは、誰にも侵すことは出来ないものだ。
深潮は狗月のことを想った。
誰よりも憎い存在を。
誰よりも愛しい存在を。
二律背反。何よりも矛盾する想いを同時に胸に抱いて、深潮は細く開いた窓から見える曇天を虚ろに瞳へ映した。
澱んだ色の雲が空を覆っていた。
雨は夜明け前に上がった様子だったが、薄い霧が街中に陰鬱とした雰囲気をもたらしている。
日が顔を出したばかりの此の時間、まとわり付く様な肌寒さが狗月を包み込んでいた。
「……………………」
またつまらない仕事になると感じていた。
前回、前々回と繰り返し行ってきたことと同様、殺せと指示された者の首を切り落とすだけだ。
「そろそろ、繰り返しにも飽きて来ましたね」
今、己が出演する演劇は、嫌々強いられて演じているのものではない。狗月は脚本家であり、演出家でもありたかった。己の演じる劇は己で脚本を書き、己で演出する。其の劇が他者には到底理解されぬ類のものであってしても、狗月にとっては至福、至上、至高の作品だ。劇中で起こることの大半は、想定の範囲内。其れが例え突発的な危機であったとしても、己の劇で起きたことである以上、狗月の意から逃れることは出来ない。
「変化とは何と愛おしい響きでしょう。僕の予想では、そろそろ新たな賽が投げられる頃ですが」
投げられた賽の目が一でも六でも、其れを活かせる自信が狗月にはあった。
「君には申し訳ないですが――僕は僕の舞台にしか立つつもりはありませんよ、ヨタ」
置いてきた深潮を脳裏に思い浮かべて、狗月は一人ごちた。
唯一切れない縁を持つ者。
唯一決めていた登場人物。
「君が僕の作品の演者になるか否か、は飽くまで君の自由、ですから」
とは言いつつも、狗月は一種の確信を抱いていた。夜鷹深潮は舞台から降りることはないだろう。此の先も、ずっとずっと。
「さて、其れでは起承転結の起を、今暫く満喫しに行きましょうか」
狗月は満足していた。
己の過去に。
己の現状に。
そして訪れるであろう、己の未来に。
※この物語は、2010年5月に発行したものをWEB用に手直ししたものです。
※この作品の無断転載、二次加工、再配布はご遠慮ください。
(この作品の著作権は著作者である雨しずくに帰属しています)